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大阪高等裁判所 昭和38年(ネ)829号 判決

控訴人 根無信義

被控訴人 同和火災海上保険株式会社

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一、当事者の申立

控訴代理人は、「原判決中控訴人勝訴部分を除きその余を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

二、当事者の主張、証拠関係は次に附加するほか原判決事実摘示のとおりであるからここにこれを引用する。但し原判決三枚目表一行目「賃権」とあるは「質権」の誤記につき訂正する。

被控訴代理人において

(一)  現存利益について。

(イ)  被控訴人が本訴において返還請求しているのは被控訴人が控訴人に支払つた保険金であつて、これが控訴人の現存利益である。控訴人は受取つた保険金を訴外浜野の借入金の弁済に充当しているが、それだからといつて右「利得」と弁済に充当された「債権」とを「混同」し又は同一視してはならない。また右債権の価値が訴外浜野の不動産に対する担保権喪失により又同訴外人が仮差押をうけ破産状態に陥つたことにより控訴人の債権が無価値に等しくなつたとしても、このことと控訴人の保険金受領による利得とは別個の存在である。利得即ち財産上の利益の存否は別に考えねばならない。

(ロ)  控訴人の利得は現存する。原判決は控訴人に現存利益存せずとして控訴人の不当利得返還義務を否定したが、この点は事実の誤認又は擬律の錯誤に出たものである。控訴人は質権者として被控訴人から受取つた保険金を訴外浜野の控訴人に対する債務の弁済に充当して財産上の利益を得て居り、此の利益は被控訴人から本訴利得返還請求を受けたときにおいても、その儘控訴人の財産上の利得として現存していると認むべきである。判例は現に受けたる金銭上の利益は減少の事実なければ依然存在するものと推定すべきもの(大判明三九、一〇、一一民録一二輯一二三六頁、大八、五、一二民録二五輯八五五頁)、利益の現存せないことは、不当利得返還請求権の消滅を主張する者において主張立証すべき責任あり(大判昭八、一一、二一民集一二巻二六六六頁、同一六、一二、五民集二〇巻一四四九頁)と判示している。本件において控訴人は訴外浜野の資産状況について主張立証しているのであるが、現存利益の有無が決定せられる控訴人自身の資産状態については何ら主張立証するところはないから、右判例の趣旨により控訴人の利益は現存するものと解すべきである。

(二)  本件に民法七〇七条一項の適用又は類推の適用はない。

控訴人は同条項の適用又は類推適用によつて不当利得返還義務を否定するが、それは前提をあやまるものである。すなわち、被控訴人は他人の債務を自己の債務と誤信して保険金を支払つたものではない。元来被控訴人は支払義務のない債務を支払義務があると誤信して控訴人に支払つたものであることは原判決認定のとおりである。従つて同条項の適用のないこと明かである。而して被控訴人に保険金支払義務を生じない理由は被保険者の放火によつて発生した保険事故であるからである。そして保険者のこの免責事由はいわば何人に対しても保険金支払を否定する物的抗弁となるものであつて、一旦発生した請求権の行使を対人間において拒否し又は制限する人的抗弁とは異る。

本件において控訴人が保険金の支払を受け、これを訴外浜野の自己に対する債務の弁済に充当した結果同人に対する抵当権設定登記等を抹消し、担保を失うに至つたことは民法七〇七条一項の構成要件の一部に該当するが、本件保険金は被控訴人が放火を失火と誤認してこれを支払つたものであつて、放火の場合にあつては保険者は支払つた保険金を被保険者、質権者、及びその何れに対しても返還すべきことを請求しうることは前記保険者の免責事由の物的抗弁性より当然であつて、この返還請求権を否定する結論に達する民法七〇七条一項はこれを類推適用する余地がない。

なお控訴人はもし質権を設定せず訴外浜野が受取つた保険金から控訴人が弁済か受けていたならば、何らの損失も被ることがないのに、質権を設定していたばかりに却つて本件の利得返還に応じなければならないことになるのは不合理であつて、このいみにおいても同条項は類推適用されねばならないと主張するが、果してその場合控訴人が浜野から債務の弁済を受けることができるか否かは全く予測の域を出ないし、又右論拠は法律上の理由に乏しい。なお保険業界において質権者に対する保険金の支払がなされた場合に後日被保険者の放火ということの判明により保険者が質権者より保険金の返還を受けた事例は従前も存する。また控訴人は被控訴人が質権者たる控訴人に保険金を支払つたことが、直に訴外浜野の債務(控訴人に対する)の弁済をしたことになるかの如き立論をするけれども、右両者は別個のことであつて、質権者は「火災保険金直接支払指図書」(甲第一二号証、一般保険業界に共通)により直接被保険者に保険金支払方を保険者に指図することが出来るのである。かくて被保険者は受取つた保険金により罹災から復興あるいは再建資金を得ることが出来る。もし控訴人主張の如く、質権者への支払が直に債務の弁済となるならば、かゝる質権者の支払指図が許される余地はないのである。

(三)  被控訴人主張の特約条項(甲第四号証)について、

(イ)  被控訴人は控訴人に対し第一次的に民法不当利得の規定により本件保険金の返還請求をするものである。かりに右返還請求権が認められない場合には予備的に特約条項を援用して右特約により控訴人に対し本訴請求をするものである。

(ロ)  右特約には重要な意義がある(特約の解釈)。

控訴人は右特約は法律上無意義であるというが、既に原審で詳述したように保険金の支払は円滑敏速になされることが要求せられ、原因の調査や損害の査定に慎重を期し難く、後に填補責任の有無や範囲につき変更を生じるに至つたとき保険者は返還請求権を確保し併せてこれに関する紛争(商法六四一、六五五条、民法七〇三、七〇五、七〇七条の適用に関する)を事前に回避する目的で、右特約条項を設けたものであるから、法律上意義がないどころか極めて重要な意義を有する。

(ハ)  控訴人には右特約締結の意思がある。

控訴人は右特約条項は締結の意思を欠く故に無効のものであると主張するが、保険金を支払うに際し被控訴人は訴外浜野、控訴人等を大阪支店に招致し領収証を両人の面前に提出し且記載事項の意義を判読し得る十分の余裕を与えた上、記名捺印を求めたものである。殊にその際、控訴人の代理で出頭した妻香代子は大阪府技術吏員を勤めている程の者であつて、これを読まず、あるいは読んでもその意義を理解し得なかつたとは到底認められない。もし仮に知らなかつたとすれば、控訴人側に重大な過失の存する場合であるから控訴人自らその不知による無効を主張し得ない。

(ニ)  控訴人に特約に対する錯誤はない。

控訴人は右特約条項に記名捺印したのはその意義が被控訴人主張の如きものであることを知らずして為したものであるから法律行為の要素に錯誤がある場合に該当し右特約は無効である、と主張するけれども、前記(ロ)(ハ)にのべた所と同一の理由により錯誤に出たものとは到底認められない。仮に錯誤に陥つたとしても、それにつき重大な過失のあること前叙の通りであるから控訴人においてその無効を主張しえない。

と陳べ、〈立証省略〉

控訴代理人において、

(一)  不当利得の成立しないことについて。

本件の場合不当利得は成立しない。すなわち、(1) 控訴人の保険金受領には法律上の原因があり、(2) 控訴人は金員受領により何ら利得をしていないし、(3) 被控訴人はこれによつて何ら損失を受けていないことは原審において主張したとおりであるが、被控訴人に損失がないことについて以下詳述する。

すなわち、被控訴人は控訴人に支払つた保険金について被保険者である訴外浜野に対し返還請求権を有するから、被控訴人に何らの損失はない。

被控訴人は原審において訴外浜野に対し本件保険金返還請求権を有しないから損失があると主張していたが、それは理由がない。現に被控訴人は右訴外人に対し本件の金六五万円を含む金八七万九九〇六円についてその返還請求訴訟を提起し大阪地方裁判所に係属中である。のみならず、被控訴人は同訴外人所有の大阪府泉南郡東鳥取村大字下出五一二番地の二宅地五五坪および同所五一三番地の一宅地三五九坪に対し仮差押をなしていることによつても明かである。控訴人は被控訴人が同訴外人に対し本件金員の返還請求権を有する以上被控訴人は何らの損失をうけていない。従つて控訴人に対し不当利得は成立しないものと解する。

(二)  民法第七〇七条一項の適用ないし類推適用について。

仮に以上の主張が認められず、不当利得が成立するとしても、本件においては民法七〇七条一項の適用ないし類推適用があるから、被控訴人は控訴人に対し不当利得返還請求をなすことが出来なくなつたものである。本件は被控訴人が訴外浜野に対する保険金支払債務がないのにあるものと誤信し、たまたま控訴人が質権を設定していたため本件保険金を質権者たる控訴人に支払つたものである。凡そ質権は被担保債権を担保するためにあるものである。換言すれば被担保債権の弁済を確保する目的のためにのみ質権を設定するものであつて、質権の機能はまさにその点に存するのである。従つて債権質に基いて質権の目的たる保険金を受領すればこれをその被担保債権(貸金)の弁済に充当するのは当然である。そして右弁済充当行為は何らの外形的行為を要するものではないのであるから前述のような質権の目的機能よりみれば、質権に基く金員の受領は即ち被担保債権の弁済と考えてよい。そして弁済充当をした場合、証書を返し、担保権を抹消することは質権者の義務となる。本件において控訴人は質権に基いて本件保険金を受領しそれを訴外浜野に対する貸金の弁済に充当し、証書の返還、他物件に対する抵当権の抹消登記をしたのである。しかるにそれがたまたま訴外浜野の被控訴人に対する保険金請求権が発生しなかつたからといつて控訴人に本件保険金の返還義務があるとすることは全く不合理といわねばならない。けだし控訴人がもし質権設定をうけておらず、本件保険金が訴外浜野に支払われ、控訴人が同訴外人より同人が受領した右保険金で貸金の弁済をうけた場合は、控訴人に保険金支払義務がないこと明かであるからである。民法第七〇七条一項は「債務者ニ非サル者カ錯誤ニ因リテ債務ノ弁済ヲ為シタル場合」と規定するだけであるから、文言上特に債務者でない者が他人の債務を自己の債務と誤信して弁済した場合に限るべき理由なく、質権の義務者(第三債務者)でない者(被控訴人)が質権者でない者(控訴人)に対し質権があるものと誤信して支払つた場合にも同法条の適用があり、少くとも実質的理由から同条項の類推適用がある。

(三)  被控訴人主張の「特約」(甲第四号証)についての反論。

(イ)  控訴人は被控訴人主張の右特約について契約締結の意思を全く欠いていたから同特約は法律上成立していない。もつとも控訴人が甲第四号証に記名捺印したことは争わないが、この記名捺印は控訴人の妻香代子が控訴人に代つて保険金受領の際になしたものであつて、それによつて、民法七〇七条一項の適用を排除し、又は不当利得の成立しないのに拘らず、返還を約する趣旨の特約をするような意思は同人に全然欠けていたものである。また右文言がそのような重要な意味をもつものであることについて被控訴人より特別の説明もなかつたのである。そのような特別な意味は右文言をすなおによんで到底出てくるものではない。控訴人の代理人香代子は同文言が被控訴人主張のような意味をもつものとは予想もせず、単なる領収証であると考えてこれに記名捺印したものである。

(ロ)  右特約文言は法律上何ら特別の意味をもつものでないから特約としての効力を有しない。すなわち右文言は法律上当然の事理をうたつたもので、要するに、保険者(被控訴人)に支払義務がなかつたとき或は他から苦情が出てそれが法律上理由のあるときに責任を負うという、法律上当然の事理を宣明したものにすぎない。従つて甲第四号証は単に金六五万円の領収証としての意味しかない。なお補足すれば、民法第七〇七条はごく特殊の場合に適用されるものである。甲第四号証の特約文言が右のような特殊の場合を予想してその適用を排除する意味を含ましめたものとは到底文理解釈上考えられない。

(ハ)  仮に以上の主張が認められないとしても右特約における控訴人の意思表示は要素に錯誤があるから無効である。すなわち、根無香代子は本文言について何らの説明をうけず、同文言が控訴人主張のような意味をもつ特約とは全く予想もしていなかつたものであつて、もしそのような趣旨であると判つていたらこれに記名捺印はしなかつたものである。従つて右特約における控訴人の意思表示はその重要な部分について錯誤があつたから無効である。なおこの点について被控訴人は控訴人側に重大な過失があると抗弁するがこの点は否認する。

(ニ)  仮に以上の主張がすべて認められないとしても、右特約は本件の場合信義則により無効ないしはその適用を制限される。すなわち、

(1)  第一前述のとおり右文言の意義が明瞭でない。これに被控訴人主張のような解釈を許すことは何らの説明もうけない法律知識に乏しい一般人をしてその文言解釈の責任、及び危険を負担させることになる。また同文書は領収証を兼ねているから受領するためにはこれに記名捺印せざるを得ない。

(2)  また本文言が被控訴人主張のような広汎な内容をもつ特約として有効であるとすれば、質権者としては保険金を質権に基いて受取つたとしてもいつ保険金の返還請求をうけるやわからないので、その可能性が全くなくなるまで、又は不当利得返還請求権の時効消滅するに至るまで質権以外の担保権を放棄することもできず、債権証書の返還も出来ないことになる。しかし、債権者が質権に基いて保険金を受領し弁済に充当した後は担保権を放棄し証書を返還するのは一般常識である。一般銀行の取扱もそうである。それなのに前述の如き結果を招くことは常識に反し不合理となる。まして本件においては被控訴人はもちろん、控訴人も本件事故が訴外浜野の放火によるものであることは全然しらず、控訴人は全く善意無過失で保険金の受領、弁済充当、担保放棄、証書の返還をしたのであつて、右が放火と判明し刑事判決で放火と確定するまでその間二年余りの期間を経過した。

(3)  更に控訴人は本件において他の土地に対する担保権を放棄し、被控訴人はこの土地に対し仮差押をしているのに対し、控訴人の方は右土地に対して有する抵当権等の登記を抹消したため担保権を喪失し、証書を返還してしまつたために結局浜野に対する貸金債権は無価値になつてしまつた。

(4)  さらに本件において控訴人に右文言により保険金の返還義務を認めることは控訴人が質権を設定していない場合と比較して不合理きわまるものとなる。

(5)  本文言が被控訴人主張のような広汎な内容をもつものとして控訴人の返還義務を肯定することは不当利得制度の趣旨にももとるものであり、信義則に反する無効の契約を有効視するものといわねばならない。

(6)  かりに右特約が無効といえないにしても本件においては信義則上その適用は制限さるべきものである。この点については「身元保証人の責任」が判例によつて制限されていつた点も考慮さるべきである。

と陳べた。立証〈省略〉

理由

一、被控訴人は原審以来その主張事実に基いて控訴人に対し(一)主位的請求として不当利得返還請求をなし、(二)予備的請求として特約に基く保険金の返還請求をしていること明かで、これに対し原審では主文では明示していないが、右主位的請求を棄却し、予備的請求を認容(但しその遅延損害金の請求については一部棄却)する判決をし、この判決に対し、被告(控訴人)が控訴したのであるが、この場合主位的請求については、全部敗訴の原告(被控訴人)が附帯控訴をしない限り、控訴審に移審していても控訴裁判所としては不利益変更禁止の原則からこれを認容する判決をすることはできない。また被告(控訴人)は主位的請求については全部勝訴の判決を得ているのであるからこれについて控訴の利益を有しないわけであるから、控訴することができない。けだし、第一審判決が不利益であるかどうかは原則として既判力が生じる判決主文を規準として判断しなければならないのであり、判断の理由が不当であるとして或る訴訟物につき全部勝訴の被告が控訴することは出来ない(最判昭三一、四、三、民集一〇巻二九七頁)からである。今これを本件についてみるに主位的請求に関する限り、当事者のいずれからも控訴なく、また、この点について被控訴人の附帯控訴もないのであるから、当裁判所としては控訴のあつた副位的請求に関する部分についてのみこれを認容した限度で原判決の当否を以下判断する(その理由は、主位的請求について当審が判断することは民事訴訟法第三七七条第一項第三八五条に反し許されぬところであるからである)。

二、特約に基く保険金返還請求について。

(一)  被控訴人が損害保険業を営む会社であること被控訴人が昭和三三年一月一八日訴外浜野義一との間に原判決添付目録記載の物件について被控訴会社普通保険約款により保険金額一三八万円、保険期間昭和三三年一月一八日より一年間、保険料二万四八四六円被保険者を同訴外人とする火災保険契約を締結したこと、右浜野は同年七月八日控訴人との間に同人が控訴人より借受けた六五万円の債務の担保として右保険契約に基く保険金請求権の上に質権設定契約をし保険事故が発生して被控訴人からその損害のてん補を受ける場合は控訴人の浜野に対する債権が弁済期前であつても保険金の内六五万円は控訴人において直接被控訴人から受取ることができる旨約し、同日被控訴人は右質権設定を承諾したこと、右保険の目的は同目録(一)の建物の内一棟を除くほかは質権設定以前の同年七月二日午前六時頃火災により全焼していたので、被控訴会社はその損害を調査し保険者である被控訴会社の負担すべき金額を八七万九九〇六円と査定し、この金額を保険金として支払うことに決定し、同月二五日その内金六五万円を控訴人に交付し残金を右浜野に支払つたこと、および控訴人が右保険金を受領する際、「後日に至り貴社に御支払義務のないことが判明したときは保証人丸山亀三郎と連帯して一切の責を負い貴社に御迷惑は御掛け致しません。」との誓約文言の附記された領収証に記名捺印してこれを被控訴人に交付したことはいずれも当事者間に争がない。

(二)  そして右火災は被保険者である浜野の放火によつてひきおこされたものであると認められる。その理由は原判決七枚目裏終より一行目以下同八枚目裏二行目までのとおりであるからここにこれを引用する。してみれば、本件火災による損害については保険者である被控訴会社にてん補責任のないことは商法第六四一条火災保険普通保険約款五条一項(甲第二号証)に徴し明かである。

(三)  控訴人は右誓約文言は附合契約における例文であつて特約たる効力を有しないと主張するけれども、右主張はこれを採用することができない。その理由は原判決一二枚目裏二行目より同一三枚目表八行目までのとおりであるからここにこれを引用する。

(四)  右誓約文言の解釈

右文言は保険金受取人が被保険者であると保険金請求権上の質権者であるとをとわず、後日保険者において保険金支払義務のないこと判明した場合に右受取人において受領した保険金相当額を返還する責に任ずることを特約したものであること明かで、しかも「一切の責任を負い決して迷惑をかけぬ」とは右返還義務の範囲について受取つた全額を返還し且つこれに受取つた時からの利息(何らの特約がないから商事法定利率によるものと解す)を附して返還し、何らの損害を加えないことを約したものと解するを相当とする。

元来、被保険者の放火という事実を知らず保険者が質権者に保険金を支払つた場合に保険者が支払つた保険金について不当利得返還請求権を有することはうたがいないとしても、その返還義務者は被保険者か質権者かについては問題がある。この点について次の二説が考えられる。

第一は、被保険者からのみ返還されるべきだとする考え方である。けだし、保険金が支払われたのは実質的には被保険者に対してである。質権者は被保険者の保険者に対する指図に基いて保険金を受領したのと同じことであるからであるとする(大判昭一〇、二、七民集一四巻一九六頁はこの理由に近い)。これに対し、同じ結論ながら、質権者は支払保険金を被保険者(債務者)の債務の弁済に充当したから利得は生じない。利得は債務免脱を得た被保険者に生じているのだから被保険者が返還債務者であるとする考え方も成り立ちうるであろう。

第二は、質権者からのみ返還さるべきであるとする考え方である。この考え方は、保険金が被保険者に直接支払われた後、被保険者が質権者に弁済した場合と、質権者が質権の効力たる直接取立権に基づき保険者から保険金を受取つた場合とを区別すべきであるとする。商法第六六五条、第六四一条、火災保険普通約款五条一項一号は何人に対しても主張しうる保険抗弁である。保険金は保険責任に基いて支払わるべきもので質権者はそれを質権の効力に基づき掴取したのであり、被保険者が質権者に負つていた債務を弁済するために支払われたものではない。というのがその大体の根拠と見受けられる。思うにその解釈の鍵は質権者は債務の弁済を受けたのかどうかという点にある。この点について考えるに質権設定契約の内容とその直接取立権の性質にかんがみ、またさらに一方保険抗弁の物的抗弁的性格をも併せ考え第二説を相当とする。この見解を採る限り、現存利益の問題すなわち不当利得返還義務の範囲の問題がある。本件におけるように受領したものが金銭である場合、これを消費しても一方において他の財産の消費を節約したことになり、それだけの利益を得ていることになるから、直に現存利益はないといいえない。

受領金自体の消失や減少は利得の滅失や減少に直結せず、受けた金銭上の利益は受領金額そのものについてなお現存するものと推定するのを相当とする。ただ、利得が給付された金銭について生じる場合でも受益の事実と因果関係を有する損害は現存利益の算定上利得の減少として受けた利益より控除されるべきものと解すべく、また一応利得は取得せられた金額についてなお現存するものとしても、この利得と並んで同一の事実より惹起せられた利得者側の損害(受益者がその利得を返還しなくてもよいことを信じたがために蒙つた信頼による損害)は受益者が善意でしかもその点について過失のない場合は相手方の給付行為によつて惹起せしめられたものといいうるから相手方をしてこれを負担せしめることが公平の理想と一致し、かゝる信頼による損害は利得から控除しうべきことは民法七〇七条の趣旨からも推察しうるところである。ところで被控訴会社のような火災保険会社においては、保険事故発生の場合可及的速に保険金を支払うことが被保険に対するサービスとして要請せられるとともに、支払をすました後になつて保険会社にてん補責任のなかつたことが判明する事例が生じた場合に備え、このような場合には一旦支払つた保険金の全額を被保険者またはこれと同視すべき受領権者よりたやすく、返還を受ける方法を講ずるの必要があり、本件における前記「質権者が一切の責を負い保険者に迷惑をかけない」旨の右誓約文言は、右のような見地から、保険者たる被控訴会社が保険金請求権上の質権者たる控訴人に対し、特にこれを差入れしめたものであり、その誓約は、無意義無内容なものではなく、法律的には保険者に本来てん補責任がなくして支払われた保険金の受領者が善意なるが故に、現存利益の消滅または減少を理由として不当利得返還義務の全部または一部を免れようとするのを封じ、全額を返還せしむべく返還義務の範囲についての特約をしたものと解せられる。(もつとも前記第一説によれば質権者に利得返還債務がないことになり、この誓約文言はそれを排除する特約として質権者にその返還義務(現存利益に止らず。)を認めたものとしての意味をもつことになる。)

以上は本件特約の解釈に関連してこれと不当利得返還義務との関係を検討したわけであるが、右特約が前記のとおり万一の場合のことを配慮し、かゝる事態の生じた場合にその受取人が全利得を被控訴会社に返還しこれに一切の迷惑をかけないことを約したものと解すべきことは文理上からも明かである。

(五)  控訴人は右文言は被控訴人に保険金支払義務のないことが判明したときその他法律上被控訴人の返還請求が理由あるときに責任を負うことを約したまででいわば法律上当然の事理を示したものにすぎず、返還責任の有無及びその範囲について特約をしたものではないというけれども、そのような解釈は独自の見解で採用の限りでない。

(六)  控訴人は右の如き特約をする意思を全く欠いていたから、同特約は法律上成立していないというけれども、右誓約文言の記載ある受領証の記名捺印は控訴人の意思に基くことは控訴人の自認するところであり、右特約が、民法の不当利得の規定との関係の如き純法律技術的な点はさておき、その文言自体より前記万一の場合に全額の利得の返還を約したものとの解釈は容易になされうる所であり、控訴人を代理してこれに調印した控訴人の妻において右文言を読解する能力や、その余裕を有していたことは原審証人佐々木鉄雄同浜野義一の各証言および弁論の全趣旨によりこれを認めうる所であつて、原審並に当審における証人根無香代子の各証言によるも前示認定をくつがえし右特約が不成立であると認めることは到底出来ない。

(七)  控訴人はかりに然らずとしても右特約は要素に錯誤があつて締結されたもので無効であるというけれども、そのような事実を認めるに足る証拠はない。(かりに控訴人の妻香代子が控訴人を代理して右契約をなすに際しその文言の解釈を誤解したとしても右は同人の重過失にもとづくものでこれを以て被控訴人に対抗しえないものといわねばならない。)

(八)  控訴人は右特約が信義則に違反し無効である。そうでなくとも身元保証人の責任に準じて責任範囲は軽減さるべき旨主張するけれども控訴人の主張するような事情だけでは右特約が信義則に反し無効であるとか、或は控訴人の責任を軽減すべき理由があるとは認められないから右主張も採用できない。

三、結論

してみれば控訴人が被控訴人に対して右特約に基き本件保険金相当額金六五万円及びこれに対する本訴状送達の翌日たる昭和三五年一二月七日より右支払ずみまで年六分の割合による遅延損害金の支払義務あること明かであるからこれを認容した原判決は相当で本件控訴はこれを棄却する(被控訴人は予備的請求について右遅延損害金を支払の翌日たる昭和三三年七月二六日より求めているが、原判決は右限度においてこれを認容し、その余の部分を棄却している。これに対し被控訴人は附帯控訴をしていないから控訴裁判所としては控訴人に不利益にこれを変更することは出来ない)。よつて、民事訴訟法第九五条第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 宅間達彦 増田幸次郎 井上三郎)

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